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2009年3月 7日 (土)

青江下坂と葵下坂

 「敵討襤褸錦」のあらすじをまとめる時には気づかなかったのですが、「伊勢音頭恋寝刃」のあらすじをまとめた後、2月公演のプログラム、床本を見ると、「伊勢音頭恋寝刃」で重要な「青江下坂」、「寝刃」がここにも出てきていました。
 床本では、
次郎右衛門は「人の目立つを憚りて、この竹杖に刀を仕込み置きましてござる」。[…]ずばっと抜いたる刃の光[…]「青江下坂、二つ胴に敷腕、ハゝゝゝ、親重代でござります」[…]「かねて寝刃は合はせ置き、よつく切れます、ずんと切れます。」
とあります。
  「夏祭浪花鑑」では、「敵討襤褸錦」のこの箇所を受けて、「したが非人の云訳とは。青江下坂じや有まいか」(岩波日本古典文学大系『浄瑠璃集』)と使われています。

 「寝刃」についての詮索は後にして 「青江下坂」をネット上で見ると、『大辞林』「葵下坂」の項に、
越前の刀工下坂市之丞(康継)およびその子孫の鍛えた刀。徳川家康から「康」の字を賜り、刀に葵の紋を刻むことを許されたことからいう。青江下坂。
とあり、名刀であることは理解できますが、「葵」がなぜ「青江」になるのかがわかりません。

 『広辞苑 第五版』、では、「葵下坂」の項に「演劇では青江物と混同して青江下坂ともいう。」とあります。
 小学館『日本国語大辞典 第二版』では、「青江下坂」(旧仮名あをえしもさか)の項に、
(1)葵下坂を誤った語。「身が差料の此の新刀と、此青江下坂(アヲエシモサカ)と、心(なかご)をすっぱり、ちょいと程よく柄釘を抜いたり、取替ても見たり」常磐津・神路山色琫(油屋)上(1855)(2)備中国青江およびその付近でつくられた刀。
とあり、ここに出てくる「青江物」は、『日国』では、「青江派」の項に、
刀工の一派。平安後期、備中国(岡山県西部)青江の地に、安次を祖としておこる。室町時代まで続き、多くの名工を出す。この派が作った刀を青江物という
とあり、『広辞苑』の「青江物」も同趣旨です。
 『広辞苑』は演劇でと限定し、『日国』では一般論として、葵下坂を青江物と混同してあるいは誤って青江下坂というようになったということになろうかと思います。しかし、両者の時代と地域の差が大きいのに、どうして間違えるのかという疑問が残ります。

 さて、 『日国』の「葵下坂」(旧仮名あふひしもさか)の項の文例を見ると、
「これは是、重代の腰の物、あをい下坂、百三十二文で買たけれど」(浄瑠璃・義経新含状1744)「刀は名に負ふ青井下坂(シモサカ)何かは以て耐(た)まるべき、アット云って斃れたる」(落語・端物講釈1891)
の用例があり、「葵」の文字を使用していません。 
 さらに、「伊勢音頭恋寝刃」にでてくる「青江下坂」の名の由来は、二段目で、お峯が青江下坂が貢の家に崇りをなす妖刀であることを語るところに出てきますが、祖父の青江刑部(ぎやうぶ)が自ら購入した下坂に青江下坂と名づけたもので、葵とは関係付けていません。(この青江下坂が妖刀たるゆえんは後日に。)

 「伊勢音頭恋寝刃」やら、 『日国』の「あをい下坂」「青井下坂」「青江下坂」の3例やらを見ると、「葵下坂」という表現が忌避されていたのではないかという感じがします。目にした例は芸能関係に限られていますが、他の用例がどうなっているか興味があります。

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