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2010年2月11日 (木)

「新版歌祭文」のタイトルについて補足

 「新版歌祭文」のタイトルについて、何か書き落としていたと気になっていましたが、『浄瑠璃名作集 上』(日本名著全集)『浄瑠璃集 下』(日本古典文学大系)によって補足します。
 お染久松の事件は、歌祭文に歌われ、歌舞伎で演じられてきました。紀海音の「お染久松 袂(たもと)の白(しら)しぼり」は、この人気を利用して浄瑠璃にしたもので、「地蔵めぐり道行」の段では、お染・久松の両人は、夢の中で自分たちと同じ名の男女の情死を歌った歌祭文を聞く場面があります。二人の行く末を暗示する場面です。この流れを踏まえて、「新版歌祭文」の外題がつけられたといいます。

 「新版歌祭文」では、歌祭文は登場しませんが、「野崎村」の冒頭で、お夏清十郎の道行の一節が語られます。久作の家に繁太夫節(上方浄瑠璃の一つ)を語る門付けが、お夏清十郎の道行きを語りはじめ、おみつは「母さんの煩ひで三味線も耳へは入らぬ。」と断りますが、なお、「清十郎涙ぐみお夏が手を取り顔打眺め、同じ恋とはいひながら、お主(しゅう)の娘を連れて退(の)く、これより上の罪もなし」と語ります。おみつは「聞きとむない。通りや通りや」と言うところに、久作が現れ、おみつの気晴らしにでもと、浄瑠璃本を買い求めます。「座摩社」の後の段、われわれはお染久松とお夏清十郎を重ねますが、久作はお夏とおみつとをくらべて「同じ娘でも世は様々」と歎じます。

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